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和泉の生存確認日記。 現在、更新停滞中。

   

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城と神社仏閣,歴史堪能ツアー #8

日付詐称で白紙更新もうしわけありません・・・・!


#6、7は彦根城特集でしたが、そこで引いたのが戦国おみくじ
戦国に即した販売店に売っているそうです。
有名武将50名からのお告げです。

そのお告げ、和泉は佐竹義重氏でした。
常陸国(ひたちのくに)、現在の茨城の戦国大名。
幼少から聡明で、十六歳で家督をつぎ、北条との合戦では先頭を駆けいきなり七人の敵を切り捨てる武勇伝持ち。
鬼義重といわれ、残っている肖像画は甲冑着用のみだそう。
面白い、ネタみくじでした。

お昼に彦根城をお暇したら、高速道路で北上、滋賀県を後にしました。
ほとんど現大河ドラマ江に関する場所に立ち寄ってないのですが、まあいっか。
やっぱり一日では廻れないものです。
また機会があったら行きたい。


北上して高速を下りたところは、福井県敦賀市(つるがし)。
下調べ前に目をつけていたところで、敦賀市中心部MAPを持参していました。
行きたいところはたくさんあったのですが、今回は二点に絞りました。

まず、氣比神宮。



市井では「けいさん」の愛称で親しまれている、
越前国の一宮。
上の写真は重要文化財(旧国宝)である、高さ11メートル日本三大木造大鳥居。

三大の他は、奈良の春日大社と広島の厳島神社。
厳島神社は行ったことがあってなんとなく覚えているけれど、
奈良はまだ踏み入れたことがありません。いつか行きたい。

この氣比神宮、敦賀市内のド真ん中にありまして、新潟でいう白山神社みたいな立地。
ですが縁は古い。
発祥は不明とされてますが、神代といわれてます。
主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)で、食物の神様。
建立されたのは702年(大宝2年)、主祭神のほかに日本武尊や応神天皇など六神を祀っているのだそうです。
なので延喜式神名帳には「氣比神宮七座」と記されている名神大社なのです。


次に行ったのが気比の松原。



松原から眺める、日本海。
日本三大松原の一つでございます。
三大松原は、三保の松原(静岡市清水区)、虹ノ松原(佐賀県唐津市)、そしてここ気比の松原らしいです。
特徴は蒼い海、白い砂浜、悠々と生い茂る松!
すごく綺麗な海岸でした。

そもそも松原とはなんぞや? と調べてみれば、
簡単に言えば、「農地を潮風や飛砂から守るために植林された人工の森」なのだそうです。別名を海岸林。
そういえば母校高校近くもこんな松林だった気がしなくもないかも?
海岸林(松原)の防災効果はいくつかあるようで、
 1)飛砂防止(田畑、家屋、道路などの埋没)
 2)防風効果
 3)防潮効果(農作物や果樹の被害)
 4)防錆効果(車の錆び、アンテナの錆び)・・潮風で錆びるみたい
 5)津波被害を軽減
 6)防霧効果(東北地方)

が紹介されていました。(@海岸林(虹の松原)の防災効果

ですが今回の東日本大震災で岩手県の高田松原が壊滅したことで、
津波被害は軽減されるが防げないと結論がでたみたいです。
重要!!「地震+津波 すぐ避難」

気比の松原の特徴
幅400メートルの松原が約1キロ続いている。
赤松と黒松が約17,000本が生い茂っている。
平均樹齢は約200年。
万葉集や日本書紀にも詠まれている。
「一夜の松原」という伝説がある。
(聖武天皇の御代に遺族異賊が来襲しようとしたそのとき、一夜にして数千の松が浜辺に出現してこの気比の松原が作られた、とのこと)


松原を後にする同時に、敦賀市ともおさらば。
またもや高速道路・北陸道を北上して向かった先は、
二日目の第二のメイン、「曹洞宗大本山永平寺」なのでございます。

続く。
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城と神社仏閣,歴史堪能ツアー #7

彦根城内部にある名勝、玄宮園(げんきゅうえん)。


江戸初期の大名庭園。
9つの橋がかかる回遊式で、増設当初から十景の見所があるといわれている庭園。
池水に反射する建物や緑、天守がとても綺麗でした。

池水から見える建物は彦根藩の下屋敷の一部。
時代の流れともに建物は増減されたようですが、
時には現存する建物のおよそ10倍もの規模があったとか。


最後は彦根城博物館
ちょうど国宝である「彦根屏風」の公開時期だったらしく、見てきました。
毎年GWを含めた一ヶ月間だけ公開するのだそうです。
博物館サイトにも写真として屏風が見れます!
それに展示物に関した解説シートが設置してあり、自由に持ち帰ることができるようになってます。
こういうのって本当にありがたい!
旅先でよく博物館に入るのですが、展示物内容は覚えていても詳細を覚えていないことが多々ありまして。
普通なら説明版を写真撮影して残しておくのですが、博物館は撮影厳禁ですよね。
もらったパンフレットだけじゃ物足りない!といつも思ってるんですよ。
なので、解説シートがあると
帰ってからブログにまとめたりするときに勉強になるんです!!

しかも今回の解説シート、井伊家に関わること以外にも、
能、雅楽楽器、武具、鎧の着方、茶の湯、焼き物と多種多様に解説されてます。
とてもありがたい内容でした。

城と神社仏閣,歴史堪能ツアー #6

二日目突入です!
彦根で泊まったのは所謂ビジネスホテルなのですが、
なんだか夕食朝食ともに豪華でした。
初めて豆乳鍋なるものを食べたわ。


さてやって来ました彦根城!!


ここからはもらってきたパンフレットと解説シート、写真で撮ってきた解説板、
そして『一個人 戦国武将の城入門』を中心に解説です。
(雑誌『一個人』の特集および500円シリーズは、つい買ってしまう役立ち雑誌です)
といっても和泉の気になる部分のみですが、
(詳細に解説を行っているサイト様がございます、検索してみてください)


彦根城概要。
成立年は1604年(慶長9年)。
琵琶湖に浮かぶ今亀山に築かれているため、別称を今亀城(こんきじょう)。
主要城主は井伊氏。
国宝の天守、重要文化財の四つの櫓と馬屋が残る、名城。


天守(国宝)

石垣の上に三階三重白亜の天守。
1607年(慶長12年)ごろに完成。
特徴は屋根の配置。非常時にはこの屋根の死角から鉄砲が撃てるようになっているとのこと。
現在は取り壊されて現存していないのだけど、
この天守の下に本丸があって、藩主の居住区だったみたい。

その他の建築物・櫓(やぐら)は
「西の丸三重櫓」「太鼓門櫓」「天秤櫓」「二の丸佐和口多聞櫓」
が現存しています。どれも重要文化財。
どの櫓もほかの城から移築したものらしいです。
安土桃山時代の遺物......!

中でも天秤櫓にかかっているこの廊下橋。

非常時には落とし橋となって天守・本丸を守る重要場所。
浪漫だ・・・

最後の重要文化財が馬屋。
L字型で21頭もの馬が収容できたんだって。
中にはマネキン馬もいて、想像しやすいつくりになっています。
なぜ重要文化財かというと、現存城郭ではここまで大規模な馬屋はほかに例がないみたい。

城と神社仏閣,歴史堪能ツアー #5

#5でやっと一日目が終わる・・・!


滋賀には有名どこのお寺はたくさんあるんですが、
それぞれ入館料があったり場所が宿泊所から離れてるなどで、
行けたのは多賀大社と天寧寺だけでした。

じゃあ宿泊する彦根市駅前に!
と車を走らせていたところ、「佐和山城跡 後○㌔」の看板表示。
漫画とゲームと大河ドラマで培ったパパ様の記憶によると、石田三成の居城だったらしい。
というわけでよく分からないまま車は佐和山城跡に向かいました。

事実を言えば、佐和山城があった丘(?)のふもとには着いたのですが、
どこが城跡なのか分からなかったんです。
ここらへんは下調べしてなかったし、持っていた唯一の情報源『るるぶ』にもそのようなこと書いてなくて。
後でついたホテルでもらったパンフレットによると、城跡なので「屋敷の碑」とか「ゆかりの寺」とか「城の門跡」があるだけで、現物はなかったのでした。

これだけなら旅レポで話題スルーもできたのですが、ちょっと面白いポスターを見つけたもので。

HIKONE×戦国BASARA3

「いざ、石田三成ゆかりの地 佐和山へ。」

これは次の日(二日目)に行った彦根城に貼ってあったポスター。
BASARAはゲームもアニメもよく分からないのだけど、(主人公の中の人ネタぐらい)
ちょっとカッコイイ!と思って撮影。
これは銀髪?
だめだ、銀髪に萌えてしまう癖がついてるみたい。
公式HPまで見に行ってしまった・・・! 
けど、うーん、このポスターの角度がいいのね。
市町村とのタイアップ、面白いです。


そんなこんなで駅前のホテルへ。
荷物を置いたら時間があったので、彦根駅前広場とデパートへ。
駅前にあった「彦根縁起(神代~現代)」

本当歴史が多い都市だわ。
滋賀は今大河ドラマ「江」のゆかりの地であるため、
お土産ものはそれら関連商品が多かったです。
でもひこにゃんが可愛かった!


次回は二日目。
特集は彦根城と永平寺です!

城と神社仏閣,歴史堪能ツアー #4

旅レポだというのに写真が小さすぎたので、設定を変えました。
これでこのブログすべての写真が大きくなっているはず!

お多賀さんの次は天寧寺(てんねいじ)というお寺です。
五百羅漢と井伊直中(井伊直弼の父)が建立した寺として有名。
   

でも五百羅漢とは何だろう?
そもそも羅漢って? 
そんな疑問時に使うのが『宗教学ハンドブック』。東奈ちゃんから戴いた辞典です。重宝しています。ありがとう!

羅漢とは別名阿羅漢のこと。
阿羅漢は「尊敬をうけるに値する人」「供養に応ぜられるべき人」の意味で、信者より供養をうける資格を有する、最も勝れた人のことを言うらしい。
のちに小乗の修行を完成させた人のことの総称になったみたいです。

でも日本の主流は大乗仏教(万人の救済)なので、
修行した個人のみを救済する小乗仏教像である五百羅漢は人気がないみたい。
そうといわれれば、祈れば救済するとされる菩薩像・観音像ばかりだわ。
レポの書き終わった日本仏教の聖地・比叡山延暦寺はそうでした。

でも絶対数は少ないけど、五百羅漢ってどの都道府県にもあるんですよ。
ネット検索したら出るわ出るわ。
ではなぜ日本では人気の少ない小乗仏教の像が各地にあるのか?
五百羅漢流行りの由来が気になる!

ネット情報なので真偽のほどはわかりませんが、
なんでも、「日本では禅宗の寺院で信仰が広まり、五百羅漢像などが作られ」たとのこと。
そういやこの天寧寺、パンフレットに「禅宗界屈指の名僧○○禅師の勤めで発願建立した」とありました(名前部分は面倒で割愛)。現在は日本禅宗三流のひとつ曹洞宗のお寺みたいなので、五百羅漢を安置する理由としては納得。

すべてを調べたわけじゃないけど、なんだか禅宗系でもなくても五百羅漢を安置しているお堂はあるみたい。
石見銀山の羅漢寺とか。ここ高野山真言宗だし。
まあそこの住職の趣味や思いつきも否定できんし、五百羅漢が宗派関係なく流行っていたのかも。
(仏教宗派の違いはまだまだ勉強不足だ・・ 仏壇屋からもらった各宗派のお仏壇の飾り方冊子は宗派の勉強には必需品)

この流行りも理由有りそう!と思ったら、
五百羅漢には伝承として「亡き親・子供・いとしい人に会いたくば、五百羅漢の堂に籠れ」という言葉があるみたい。五百羅漢は一体一体の表情、服装、ポーズが違うから、必ず自分の探し求める人の顔があるんだって。
現に天寧寺の五百羅漢、本当に仏像一体一体みんな違っていて壮観でした。
一応、家族全員自分に似てる?仏像探してきたしね。

この伝承の元も辿りたいけど、畑違いなのでここでやめよう・・・
でもこの伝承は各地で言われているみたいだから、有名な伝承みたいです。
そうなると、この伝承にあやかってという理由も考えられるよね。
個人一人ひとりの供養になると五百羅漢像が各地で作らたのかもしれない。

なんとなく日本の五百羅漢像は
修行した個人(阿羅漢)を祀るだけではなくて、
生き残った人による故人の救済を願う像と変遷していった気がする。
あくまで素人見解だけど。



あれ、五百羅漢だけでこんな文量に!
駄文を読んでくれてありがとう。
というわけで井伊直弼のお父さん直中公に関する話題は割愛。
そんなに興味ある内容でもないし・・・
詳細知りたい人は検索するか、上記リンクで飛んでくださいな。写真内の説明で充分だとは思うけど。

というかこの旅レポ第二弾、長すぎ。
まだ一日目も終わっていないのに!
まだまだ続きますがお付き合いいただけると幸いです。
というか予定としては第三弾もあるんですが・・・ 
  

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